LOGIN雪の中で拾った黒い子竜を外套の内側へ入れてから、ミオは自分がとんでもなく馬鹿なことをしているのではないかと、岩陰へ向かって歩きながら何度も考えた。
北方荒野には人を襲う魔物がいると、王宮にいた頃から散々聞かされている。しかも今のミオは、魔物を一撃で退けられる剣も魔法も持っておらず、食料だって決して豊富ではない。その貴重な食料を、正体も分からない竜らしき生き物へ与えようとしているのだから、マリアがこの場にいたなら両肩を掴まれて揺さぶられながら、「さっき約束したばかりでしょう」と叱られていただろう。
「分かってます、分かってますよ。困っているものを何でも拾っていたら、私のほうが先に死ぬんですよね。でも、さすがにこの状態で置いていくのは寝覚めが悪いじゃないですか。だから一晩だけ、一晩だけです。明日の朝になって元気になったら、あなたはあなたの群れに戻る。私は町へ向かう。それでおしまいですからね」
外套の中へ向かって言い聞かせると、小さな黒竜は理解しているのかいないのか、ミオの胸元へさらに深く顔を埋めた。
「……そうやって聞こえないふりをするの、ずるくありません?」
返事はない。
代わりに、小さな鼻先から温かい息が漏れた。
先ほど抱き上げたときより呼吸が落ち着いている気がして、それだけでミオは少し安心した。
岩場の奥には、幸いにも人ひとりが寝られる程度の窪みがあった。洞窟と呼ぶには浅すぎるが、吹きつける雪を直接受けずに済むだけありがたい。ミオは荷物を下ろし、王国から支給された簡易テント用の布を岩壁へ固定すると、風の侵入を少しでも防げるよう工夫した。
王宮にいた頃、北部へ救援物資を運んだ経験が役に立った。
もっとも、当時は騎士や兵士が何十人も一緒だったため、自分が雪原で野宿することになるとは考えてもみなかったが。
「人生って、本当に何が役に立つか分からないものですね。まさか王太子妃教育より、避難民用テントの設営方法のほうが先に役立つとは思いませんでした」
独り言を口にしながら手を動かす。
黙っていると、余計なことを考えてしまうからだ。
王宮のこと。
アドリアンのこと。
リリアのこと。
今頃、大広間では自分がいなくなったあとも宴が続いているのだろうか。それとも新しい聖女の就任祝いへ、そのまま切り替わったのだろうか。
自分が座るはずだった席に、もうリリアが座っているのだろうか。
そこまで想像したところで、ミオは勢いよく頭を振った。
「やめやめ。考えてもお腹が空くだけです。失恋した女が雪山で元婚約者と新しい恋人の夕食を想像するとか、自分で自分をいじめてどうするんですか」
「キュ……」
胸元から小さな声がした。
「あら、起きていました?」
ミオは外套を開いた。
黒い子竜が、金色の瞳でこちらを見上げている。
間近で見ると、やはり不思議な生き物だった。
全身を覆う鱗は単なる黒ではなく、光の加減によって青や紫にも見える。小さな頭から伸びる二本の角はまだ短いが、滑らかな曲線を描いており、背中には折り畳まれた翼がある。
ただし、その片方には深い傷が入っていた。
「見せてもらいますよ。痛かったら噛んでもいいですけど、指を食いちぎるのだけはやめてくださいね。今の私、治癒魔法が使えませんので」
子竜を毛布の上へ下ろし、ミオは荷物から小さな薬箱を取り出した。
国外追放を言い渡された人間が、どうして薬箱まで持っているのかと聞かれれば、これも習慣だった。聖女として人を治す力がないからこそ、ミオは傷の消毒や薬草の扱いを必死で学んできた。
「傷は……矢、でしょうか」
翼の付け根近くに裂傷がある。
幸い、何かが刺さったままというわけではない。ただ、その周辺の鱗が焦げたように変色していた。
普通の矢ではない。
魔法か、魔道具による攻撃を受けたのかもしれない。
「あなた、誰かに襲われたんですか?」
子竜は黙っている。
「まあ、話せませんよね。私も疲れているみたいです。とうとう竜に事情聴取を始めました」
ぬるま湯を作り、傷口を丁寧に洗う。
子竜の体がぴくりと震えた。
「痛いですよね。ごめんなさい。でも汚れを残しておくほうが怖いので、少しだけ我慢してください」
もう一度触れると、今度は低く喉を鳴らした。
威嚇なのかもしれない。
けれど逃げようとはしなかった。
「嫌なら暴れてもいいんですよ。私なんて簡単に振り払えるでしょう?」
ミオは苦笑した。
少なくとも竜なのだ。
小さくても、普通の動物とは違う。
けれど子竜はミオの指を噛む代わりに、じっと彼女の顔を見ていた。
妙に人間くさい目だな、とミオは思った。
警戒しているのに、こちらが何をするのか確かめようとしている。
「大丈夫です。痛いことをしたいわけじゃありませんから」
薬草を潰して傷口へ塗り、清潔な布を細く裂いて翼へ巻いた。
あまり強く縛ってはいけない。
かといって緩すぎれば外れる。
「これでよし。たぶん、飛べるようになるまでは何日かかかると思います。……あ」
言ってから、自分で固まった。
一晩だけのつもりだった。
なのに、何日かかると口にしている。
子竜が首を傾げる。
「いや、その顔はやめてください。今、私自身が一番気づきたくなかったことに気づいたので」
「キュ」
「あなた、絶対ちょっと分かってますよね?」
小さな尾が毛布を叩いた。
ミオは深くため息をついた。
どうやらこの生き物を傷が治らないまま放り出すことは、自分にはできそうにない。
「マリアに知られたら、ものすごく怒られるでしょうね。『一晩だけと言った人が、どうして治るまで世話をしているんですか』って。……でも、まあ、ここにはマリアはいませんし」
口にしてから寂しくなった。
胸が痛む前に、ミオは立ち上がった。
「それより、ご飯にしましょう。あなたもお腹が空いているんでしょう?」
その言葉には、はっきり反応した。
子竜の頭が持ち上がり、金色の瞳がミオの荷物へ向く。
「分かりやすいですね」
保存食の袋を開ける。
入っていたのは黒パン、干し肉、干した豆、玉ねぎ、少量の根菜、それから塩だった。
国境までの騎士たちは、自分たちの食料からいくつか分けてくれたらしい。追放命令そのものは理不尽でも、末端の兵士まで全員が冷たいわけではないのだ。
ミオは少し迷った末、干し肉と野菜を取り出した。
「本当はもっと節約しないといけないんですけど……病人、じゃなくて病竜に黒パンだけというわけにもいきませんからね」
王宮から持ってきた小鍋を出し、簡易魔石で火を起こす。
火属性の魔法が使えないミオにとって、この小さな魔道具はかなり高価な私物だった。王太子妃となるために贈られた宝石の多くは王家の所有物として返却させられたが、自分で購入した生活道具は持ち出すことが許されている。
「まず、干し肉を少し水で戻して……その出汁も使いましょう。玉ねぎは薄めに切って、根菜も小さくしたほうが火が通りやすいですね」
子竜がこちらを見ている。
「何ですか」
金の瞳が包丁の動きを追う。
「珍しいですか? 料理ですよ。あなたが普段何を食べているのか知りませんけど、まさか人間を丸ごと食べるとか言わないですよね」
子竜の視線がミオへ向いた。
「……今、私を見ました?」
「キュ」
「やめてくださいよ。冗談でも怖いんですから」
不思議なことに、一人で料理をしていると少し気持ちが落ち着いた。
包丁で野菜を切る音。
鍋の中で湯が温まる音。
干し肉の塩気が湯へ溶け、玉ねぎの甘い香りが立ち上ってくる。
王宮では豪華な料理を毎日のように食べていたが、ミオが好きだったのはこういう食事だった。
豪華でなくていい。
温かくて、食べた人が少しほっとできればいい。
日本にいた頃、仕事で帰宅が遅くなった夜には、冷蔵庫の残り物でよくスープを作った。
母から教わった料理だった。
『汁物は偉いのよ。大抵の残り物を、ちゃんと夕飯らしくしてくれるんだから』
母はいつもそう笑っていた。
「……お母さん」
思わず声が漏れた。
三年経った。
日本では、自分はどうなっているのだろう。
行方不明者なのか。
死んだと思われているのか。
家族はまだ探しているのだろうか。
考えれば、今度こそ泣いてしまいそうだった。
すると、足元で何かが動いた。
黒い子竜が、怪我をした翼を庇いながらミオの近くまで歩いてきていた。
そして前足を、彼女の膝へ乗せる。
「どうしました?」
「キュゥ」
「お腹が空いた?」
違う、と言うように首を振った気がした。
まさか。
「慰めてくれてるんですか?」
子竜は答えない。
ただ、そのまま膝へ頭を押しつけてきた。
ミオはしばらく目を瞬かせてから、堪えきれず笑った。
「あなた、本当に竜ですか? 犬とか混じってません?」
「グルル」
「そこは怒るんですね」
頭を撫でようと手を伸ばす。
すると子竜は一瞬だけ身を固くした。
誰かに触れられることに慣れていないようだった。
ミオは手を止めた。
「嫌ならやめますよ」
しばらく待つ。
すると子竜のほうから、少しだけ頭を近づけてきた。
「……では、遠慮なく」
角に触れないよう、鱗の上を優しく撫でた。
冷たかった体には、もう少しずつ温かさが戻っている。
「生きていてよかったですね、あなた」
そう言った瞬間、何とも言えない気持ちになった。
もしかしたら自分自身に言っているのかもしれない。
今日、婚約を破棄された。
聖女ではなくなった。
国から追い出された。
帰る場所もない。
それでも生きている。
この竜も生きている。
それだけなら、まだ何かを始められるのかもしれない。
鍋から、くつくつと音がした。
「ほら、できましたよ」
塩をほんの少し加え、味を見る。
干し肉から十分な塩気が出ていたため、それ以上は必要ない。
王宮の料理人なら「料理とは呼べない」と笑うかもしれない、ひどく素朴なスープだった。
けれど、この寒さの中なら御馳走だ。
木の器へ少し取り分け、熱すぎない程度まで冷ます。
「竜って玉ねぎを食べても大丈夫なんでしょうか。犬には駄目でしたよね。竜は……どうなんでしょう」
子竜がじっと器を見ている。
「そんな期待に満ちた顔をされると困るんですが」
考えた末、子竜用には具を少し避け、肉と煮汁を中心にした。
「これならたぶん大丈夫でしょう。駄目だったらごめんなさい。異世界竜類栄養学なんて本は読んだことがないので」
器を前へ置く。
ところが子竜はすぐには食べなかった。
スープの匂いを嗅いだまま、動きを止めている。
「……嫌いでした?」
さすがに少し傷ついた。
「まあ、竜の舌に合う料理なんて知りませんし、仕方ないですけど。生肉のほうがよかったなら、そう言ってくれれば……って、話せないんでしたね」
子竜の瞳が大きく開いている。
その表情は、嫌がっているというより驚いているように見えた。
「どうしたんですか?」
小さな舌が、恐る恐るスープを舐めた。
一口。
そして動かなくなった。
「え、本当に大丈夫ですか?」
次の瞬間。
子竜がものすごい勢いで器へ顔を突っ込んだ。
「ちょ、ちょっと待って、熱くないですか!? 誰も取りませんから、そんな勢いで食べないでください!」
ぴちゃぴちゃという音を立てながら、猛烈な勢いで飲んでいく。
さっきまで弱っていたとは思えない。
「待ってくださいってば。病み上がりで一気に食べたら、お腹がびっくりしますよ。はい、いったん終わり」
器を持ち上げる。
子竜の頭も一緒についてきた。
前足で器の縁にしがみついている。
「離してください」
「グルルル」
「威嚇しても駄目です。食べ過ぎて吐くほうがかわいそうでしょう」
「グルルルル」
「竜王様でも何でも知りませんけど、病人は言うことを聞いてください」
もちろんミオは、目の前の小さな生き物が本当に竜王だとは知らない。
ただ「竜だから偉そう」という程度の冗談だった。
しかしその言葉を聞いた瞬間、子竜がぴたりと止まった。
「……どうしました?」
金色の目が、じっとミオを見ている。
「まさか本当に偉かったりします?」
沈黙。
「いやいや、そんなわけないですよね。こんなところで一人で倒れているんですから。群れからはぐれた子供でしょう?」
子竜の眉間らしき場所に皺が寄った。
「怒らないでください。かわいいって褒めているんですよ」
「グル」
「はいはい。格好いいです。とても立派な竜です」
そう言いながら器を返す。
今度は少しずつ食べさせた。
一口ごとに、子竜は妙に大切そうに味わった。
ただ腹が減っていただけにしては、反応が大げさだった。
三杯目を要求されたところで、さすがにミオは首を振った。
「駄目です。残りは明日の朝です」
子竜は鍋を見る。
「駄目」
鍋を見る。
「そんなに見ても増えません」
今度はミオを見る。
「……その目、どこで覚えたんですか」
まるで捨てられた子犬のような顔をしている。
少なくともミオにはそう見えた。
「一口だけですよ」
結局負けた。
自分でも甘いと思う。
けれど、こんなに喜んで食べてもらったのは久しぶりだった。
王宮ではミオが料理を作っても、「聖女の力を発動するため」という扱いだった。
味について感想を言われることは少ない。
アドリアンなど、一緒に食事をしているときでさえ書類を見ていたことがある。
それなのに、この小さな竜は皿の底まで舐めている。
「……そんなにおいしかったですか?」
子竜が顔を上げた。
「キュ」
「そうですか」
たったそれだけなのに、胸が温かくなった。
「ありがとうございます」
食べてもらった側なのに礼を言うのも変だと思いながら、ミオは自分の分のスープを器へよそった。
黒パンを浸して食べる。
「おいしい」
特別な味ではない。
でも温かい。
それだけで体の芯までほどけていく。
「こういうのでいいんですよね」
誰に言うでもなく呟く。
「豪華な料理じゃなくても、聖女らしい奇跡じゃなくても、お腹が減っている誰かにご飯を作って、その人がおいしいって思ってくれたら、それで十分役に立ってるんですよね。……いや、竜だから『人』じゃないですけど」
子竜が不満そうに鼻を鳴らした。
「細かいですね」
食事を終える頃には、外は完全に夜になっていた。
雪はまだ降り続いている。
ミオは鍋と器を雪で軽く洗い、翌朝きちんと水で流せるよう脇へ置いた。
簡易テントの中へ毛布を敷き、自分も横になる。
「あなたはそっちですよ」
子竜用に、丸めた外套の上へ小さな寝床を作る。
子竜はそこへ座った。
「では、おやすみなさい」
目を閉じる。
十秒ほど経った。
腹の上へ何かが乗った。
「……重いんですけど」
目を開けると、子竜が堂々とミオの腹の上にいた。
「あなたの寝床はあっちです」
抱えて戻す。
「おやすみなさい」
再び目を閉じる。
しばらくすると、今度は脇腹に温かなものが潜り込んできた。
「……だから」
顔を向ける。
黒い子竜が、ミオの毛布の中へ半分入っていた。
金色の瞳だけが覗いている。
「一人で寝るのが嫌なんですか?」
返事はない。
「私だって嫌ですよ」
思わず本音が出た。
「今日までずっと王宮にいたんです。隣の部屋にはマリアがいて、廊下には夜番の騎士がいました。うるさいくらい人がいたんです。それが急に、こんな雪原で一人ですよ。怖くないわけないでしょう」
子竜の耳のような突起が動いた。
「……だから、今日だけですよ」
ミオは毛布を少し持ち上げた。
子竜が当然のように中へ入ってくる。
「図々しいですね、あなた」
けれど追い出さなかった。
むしろ腕の中へ収める。
小さい体はすっかり温まっていた。
抱き枕にするには鱗が少し硬いけれど、不思議と嫌ではなかった。
「名前がないと呼びにくいですね」
子竜が顔を上げた。
「飼うわけじゃないですから、本当の名前を付けるつもりはありませんよ。ただ、明日まで呼ぶ名前が必要でしょう?」
黒い鱗。
金色の瞳。
立派な角。
考えてみる。
「クロ……は、そのまますぎますよね。ブラック……もっとひどいですね。ドラちゃんは絶対怒りそうですし」
「グルル」
「やっぱり駄目ですか」
少し考え、ミオは笑った。
「じゃあ、ノワール。昔働いていたホテルで、黒いチョコレートケーキにそんな名前が付いていたんです。意味は『黒』だったはずなので、結局そのままですけど」
子竜は何とも言えない顔をした。
「嫌なら明日の朝まで我慢してください。どうせ一晩だけですから」
そう言って目を閉じる。
しばらくして腕の中の子竜が、ミオの胸元へ頭を寄せた。
「おやすみ、ノワール」
今度こそ眠ろうとした。
けれど、なかなか眠れなかった。
疲れているはずなのに、頭の中では今日の出来事が何度も繰り返される。
『君との婚約は破棄する』
アドリアンの声。
『君でなければならない理由がない』
胸が痛んだ。
結局、そこなのだと思う。
王太子妃でなくなったことより、聖女という肩書きを失ったことより、あの一言が一番つらかった。
君でなければならない理由がない。
それなら三年間、自分は何だったのだろう。
「……ノワール」
眠っていると思った子竜の目が開いた。
「私、面倒くさいですよね」
答えが返ってこないからこそ、口にできた。
「捨てられたなら、『あんな男こっちから願い下げです』って思えれば格好いいのに、全然そうならないんです。腹は立つし、悔しいし、王宮なんか二度と見たくないって思うのに、アドリアン殿下が昔優しくしてくれたことまで嘘だったとは思いたくないんです」
子竜は黙っている。
「でも、あの人は私じゃなくてもよかったんでしょうね。聖女で、王太子妃に相応しくて、国に役立つ女なら誰でもよかった。私も似たようなものだったのかもしれません。婚約者だから好きになろうとしていただけで、本当のあの人を見ていなかったのかも」
話せば話すほど、自分の格好悪さが分かる。
それでも止まらなかった。
「あなたはいいですよね。嫌な相手がいたら、がおーって火でも吐けば済むんでしょう?」
「グル」
「私も吐けたらよかったのになあ、火」
その瞬間、子竜の鼻から小さな火花が飛んだ。
「えっ」
毛布の端へ小さな焦げ跡ができた。
「ちょっと! 寝床で火を吐かないでください! 私の毛布一枚しかないんですから!」
子竜が慌てて鼻先を前足で押さえる。
その姿がおかしくて、ミオは吹き出した。
「あはは……もう、本当に何なんですか、あなた。私が人生で一番惨めな夜を過ごしているはずなのに、笑わせないでくださいよ」
笑っているうちに涙が出た。
今度の涙は、先ほどまでとは少し違った。
泣きながら笑い、笑いながら鼻をすすった。
「変な夜ですね」
子竜の頭を撫でる。
「でも、一人じゃなくてよかったです。ありがとうございます、ノワール」
しばらくして、ようやく眠気が訪れた。
雪の音を聞きながら、ミオは深い眠りへ落ちていった。
その直前。
自分の胸元で眠る黒い子竜の体が一瞬だけ淡く光ったことに、彼女は気づかなかった。
翌朝。
ミオが最初に感じたのは、温かさだった。
雪原の岩陰で眠っているはずなのに、妙に暖かい。
それどころか、自分の背中に何か大きなものが密着している。
腕もある。
腰のあたりへ、しっかり人間の腕が回されていた。
「……ん?」
寝ぼけたまま目を開ける。
目の前には、黒い髪があった。
「……んん?」
昨日まで存在しなかったはずの黒髪だ。
しかも、やけに長い。
ミオはゆっくり視線を上げた。
そこには知らない男の顔があった。
近い。
恐ろしいほど近い。
鼻先が触れそうな距離で、見知らぬ青年が眠っている。
漆黒の髪。
長い睫毛。
彫刻のように整った顔。
眠っているため瞳の色までは分からないが、こんな美青年をミオは生まれて初めて見た。
問題はそこではない。
「…………誰?」
声が震えた。
さらに問題があった。
男の肩は裸だった。
毛布の下を確認する勇気はない。
だが、少なくとも上半身には何も着ていない。
そして自分は、その男の腕の中で寝ている。
昨日拾った子竜の姿は、どこにもない。
「……待って」
頭が働かない。
「待って待って待って。どういうこと? 私、昨日、失恋して、追放されて、雪原で竜を拾って、スープを作って、一緒に寝て……それで、どうして朝になったら裸の男に抱かれてるんですか!?」
最後は完全に叫んだ。
男の瞼が動いた。
ゆっくり開いた瞳は、昨日何度も見た色だった。
黄金。
黒い子竜とまったく同じ、鮮烈な金色の瞳。
男は数秒間ミオを見つめたあと、低く掠れた声で言った。
「……朝か」
「朝か、じゃありません! 誰ですかあなたは! ノワールはどこですか! というか服を着てください!」
男は眉を寄せた。
「ノワール?」
「昨日拾った黒い竜です! このくらいの、小さくて、翼を怪我していて、ものすごくスープをおかわりした――」
説明しながら、ミオは途中で口を閉じた。
男の右肩から背中へかけて、白い布が巻かれている。
自分が昨夜、子竜の翼へ巻いたものと同じ布だった。
位置こそ違う。
けれど薬草の緑色の染みまで同じだ。
ミオの顔から血の気が引いた。
「まさか」
男は自分の肩へ視線を向けた。
それから、ようやく状況を理解したらしい。
「なるほど。昨夜は竜形だったか」
「竜形だったか、って……」
ミオは毛布を胸元まで引き上げ、じりじりと後退した。
「あなたが、昨日の子竜?」
「子竜ではない」
「そこが一番重要なんですか!?」
男は起き上がろうとした。
毛布がずれる。
「待って! 動かないでください! 絶対に!」
「なぜだ」
「服を着ていないからです!」
「服?」
本気で分からないという顔をされた。
ミオは頭を抱えたくなった。
「人間の姿になるなら服も一緒に用意してくださいよ! 竜の常識なんて知りませんけど、人間の女の隣で裸で寝ていたら大問題なんです!」
「昨夜、君が私を毛布へ入れた」
「そのときは竜だったでしょう!」
「同一個体だ」
「そういう理屈の話をしているんじゃありません!」
朝一番から、雪の岩陰にミオの声が響いた。
男は少しだけ目を細めた。
怒ったのかと思ったが、違った。
どうやら笑いを堪えているらしい。
「何がおかしいんですか」
「いや。二百年ほど生きているが、朝からこれほど怒鳴られたのは初めてだ」
「二百年?」
ミオは固まった。
人間ではない。
当たり前だ。
竜なのだから。
しかし二百年という数字を聞くと、急に目の前の存在が得体の知れないものに感じられた。
男もそれに気づいたらしい。
表情から、わずかに笑みが消えた。
そして彼は、ミオを見た。
昨夜の子竜のときとはまるで違う、圧倒的な存在感があった。
ただ座っているだけなのに、空気そのものが変わったように感じる。
「人間の女」
低い声が響いた。
「名を聞いていなかったな」
「……ミオです。相沢美緒。この世界では、ミオと呼ばれています」
「ミオ」
男は一度、確かめるようにその名を口にした。
たった二文字なのに、妙に耳に残った。
「私はカエル・ヴァルドレイク」
ミオは首を傾げた。
どこかで聞いたことがある。
それも、何度か。
王宮の外交資料だっただろうか。
北方の地図。
魔物大陸。
そして人間王国が最も警戒している存在。
記憶がつながった瞬間、ミオの背筋が凍った。
「……カエル、ヴァルドレイク?」
「ああ」
「魔物大陸ヴァルディアの……」
男は淡々と言った。
「人間どもが何と呼んでいるかは知らないが、ヴァルディアの王位にある」
知っている。
知らないはずがない。
血塗れの竜王。
千の騎士を一夜で焼いた黒竜。
人間を憎み、人間の国へ決して足を踏み入れない魔物の王。
ミオは昨夜、その竜王を拾った。
ノワールと勝手に名付けた。
犬みたいだと言った。
何度も頭を撫でた。
食べ過ぎだからと皿を取り上げた。
挙げ句、「病人は言うことを聞け」と説教した。
「…………終わった」
「何がだ」
「私の人生です」
「昨夜も同じようなことを言っていなかったか」
「聞いてたんですか!?」
「耳は聞こえていた」
「だったら話せるなら話してくださいよ!」
「竜形では人語を発音しづらい」
「先に言ってください!」
「だから発音しづらいと言っている」
「もう嫌、この人!」
ミオは両手で顔を覆った。
昨日、人間の王国を追放されたと思ったら、翌朝には人類最大級の敵とされる竜王と同じ毛布で目覚めている。
自分の人生は、少し展開を急ぎすぎではないだろうか。
ところがカエルは、そんなミオをしばらく観察したあと、唐突に尋ねた。
「ミオ。昨夜のスープは、君が作ったのか」
「……そうですけど」
「誰かから与えられた魔法薬ではない?」
「ただのスープですよ。干し肉と玉ねぎと根菜を煮ただけです」
「薬草は?」
「傷に使っただけです。スープには入れていません」
「では、やはり君か」
その声が変わった。
先ほどまでの淡々とした調子ではなく、どこか信じられないものに触れたような響きがある。
「何がですか?」
カエルは自分の胸へ手を当てた。
「私は二百年近く、食物の味を感じていない」
ミオは瞬きをした。
「……二百年?」
「ああ」
「昨日は、あんなに食べていましたよね」
「だから言っている。味がした」
カエルの金色の瞳が、真正面からミオを捉えた。
「君の作ったものだけが、味を持っていた」
ミオは何も言えなかった。
カエルは続ける。
「それだけではない。私は長く眠ることもできなかった。呪いを受けて以来、眠れば悪夢によって目覚める。深く眠れたのは……いつ以来だろうな」
「でも、昨夜は」
「眠った。朝まで一度も目覚めなかった」
初めてカエルの顔から余裕が消えた。
強大な竜王ではなく、長い間失っていた何かを突然返された一人の男の顔だった。
「ミオ」
「はい」
「確認したいことがある」
「何でしょう」
「人間の世界では、命を救われた男が、その女へ結婚を申し込むことは一般的な習慣か?」
「……はい?」
ミオは耳を疑った。
カエルは極めて真剣だった。
「私は人間の慣習に詳しくない。契約、財産、領地、宝石、望むものがあれば用意できる。ただし、私は君を手放したくない」
「待ってください」
「君が必要だ」
その言葉に、ミオの胸が不意に大きく鳴った。
昨日。
『君でなければならない理由がない』
そう言われた。
そして今日。
会ったばかりの竜王から、
『君が必要だ』
と言われている。
あまりにもタイミングが悪い。
心が弱っていなければ、もう少し冷静に聞けたのかもしれない。
「……それ、料理が必要って意味ですよね?」
「ああ。それもある」
「それも?」
「君の傍にいると、呪いが静かになる」
カエルは当然のことを話すように続けた。
「ゆえに、最も確実なのは君を私の傍へ置くことだ。人間が男女を長期間同じ住居へ置く場合、婚姻が適切なのだろう?」
「何をどう勉強したら、そんな結論になるんですか」
「違うのか?」
「かなり違います!」
ミオは思わず叫んだ。
「昨日婚約破棄された女に、翌朝いきなり結婚を申し込まないでください! こっちは感情の整理すらできていないんです!」
カエルは少し考えた。
「では、今日でなければいいのか?」
「そういう意味でもありません!」
「難しいな、人間は」
「あなたが雑なんです!」
カエルはしばらく黙った。
それから、極めて真面目な顔で言った。
「分かった。ならば順序を踏もう」
「……嫌な予感しかしませんけど、何でしょう」
「まず服を用意する」
「そこは最優先でお願いします」
「その後、朝食を食べる」
「はい」
「そして改めて、君へ結婚を申し込む」
「話を聞いてました!?」
雪に閉ざされた岩陰へ、ミオの叫び声が響いた。
追放された翌朝。
彼女の新しい人生は、世界で最も恐れられている竜王からの、あまりにも唐突な求婚によって始まろうとしていた。
第112話 店を一日まるごと任せたら、私の知らない新メニューが増えていました『ミオの食卓』を一日まるごと店員たちへ任せることになったのは、ミオ自身が言い出したことだった。西方獣人連邦で、自分がいなくても市場の人々が話し合いを続けられる仕組みを見てきた。王都へ戻ってからも、エナたちだけで昼営業を終えられた日があった。店主が不在でも店が壊れないことは、すでに頭では分かっている。だから次は、中途半端に厨房へ顔を出したり、閉店前だけ帳簿を確認したりするのではなく、本当に朝から晩まで店へ行かない日を作ってみようと決めた。決めたのだが。「やっぱり、開店前だけ顔を出したほうがよくないですか?」朝食の席でそう言った瞬間、向かいに座っていたカエルがパンを置いた。「昨日は行かないと言った」「言いました。でも、仕込みの最終確認だけなら仕事を取り上げることにはならないでしょうし、新しい仕入れ先から届く豆の状態も気になります。あと、マルタさんのお子さんの熱は下がったとは聞いてますけど、本人が無理して出てきてないか確認したいし」「それを店へ行くと言う」「十分だけです」「昨日もその話をした」「昨日は十五分って言いました」「今日は短くしただけ」「短くしたんだから進歩でしょう?」「違うと思う」妙に真面目な顔で否定され、ミオは口を閉じた。カエルは以前なら、店へ行かせないために命令するか、もっと露骨に不機嫌になったかもしれない。今はそうではなく、ただ昨日の約束を一つずつ確認してくる。「ミオが決めたんだろう。今日は店を任せるって」「はい」「なら、任せる」「分かってます。でも、任せるのと、何も確認しないのは少し違う気がして」「エナから朝の連絡は来た」
第111話 竜王から届いた最初の手紙は、同じ城の中からでした翌朝、ミオの部屋へ届いた一通の手紙は、差出人の名前を見る前から、誰が書いたものなのか何となく分かった。理由は単純で、封筒の表に書かれた「ミオへ」という文字が、妙に大きかったからだ。王城で使われる公文書なら、宛名はもっと整然としている。ルシアンから届いた私信も、字そのものは軽快だったが、少なくとも封筒の中央に収まっていた。ところが今回のものは、書き慣れていない人が「これくらい大きく書けば間違えないだろう」と判断したらしく、封筒の半分近くを使って堂々と名前が書かれている。朝食前にそれを持ってきた侍女のリュナは、平静な顔を保とうとしていたが、口元がわずかに震えていた。「こちら、カエル陛下よりお預かりしております」「……同じ城にいるのに?」「はい」「カエル、今どこにいるんです?」「東棟の執務室で、朝の報告を受けておられます」「じゃあ、ここまで歩いても十分もかからないですよね」「おそらく」リュナはそこで一度言葉を切り、少しだけ視線を下げた。「ただ、昨夜からかなり真剣に書いておられましたので、受け取って差し上げたほうがよいかと」その言い方に、ミオは封筒とリュナを交互に見た。「昨夜から?」「私は直接見ておりませんが、執務室へ紙を追加で運んだ者が三人おります」「そんなに何を書いたんですか」「最初に用意した便箋を何度も破棄されたそうです」嫌な予感がした。長文の愛の告白が十枚くらい入っているのではないか。それなら、昨夜「どうでもいいことを書けばいい」と言った意味がほとんどない。ミオは少し緊張しながら封を切った。中には便箋が三枚入っていた。
第110話 銀狼王から届いた最初の友達の手紙には、愚痴しか書いてありませんでした地下遺跡の三度目の調査を終えてから二日後、ミオは朝から『ミオの食卓』の厨房に立っていた。正面扉の向こうに何があるのかは気になっていたし、「ここより先、名を持ち込むな」と読める可能性がある碑文についても、頭から完全に追い出せたわけではない。それでも、ザラたちの解析が進むまでは再調査を行わないと決めた以上、ミオにできることは待つことだった。以前なら、待っている時間ほど苦手なものはなかった。自分が動いていないと、何か大事なものを取りこぼしている気がしたからだ。けれど今は、煮込み鍋から立ち上る湯気を見ながら、待つことも一つの選択だと思えるようになっていた。「ミオさん、塩これくらいでいいですか?」厨房の反対側からノアに呼ばれ、ミオは小皿へ取られたスープを味見する。「うん、これで大丈夫です。ただ、今日の根菜は少し甘いから、最後に黒胡椒をほんの少し増やしてもいいかも」「分かりました」「でも全部入れる前に、一杯分だけ試してくださいね」「はい」そこへ、パン籠を運んでいたロッドが口を挟んだ。「昨日のミオさんだったら、自分で全部調整してませんでした?」「昨日っていうほど前じゃないでしょう」「最近、成長の速度が速いから」「またそれ言う」「便利なんですよ」「人を成長観察日記みたいに扱わないでください」ロッドが笑う。エナも客席側から顔を出して、「でも今日はちゃんと任せてますね」と追い打ちをかけてきた。「はいはい。褒めても何も出ませんよ」「褒めてるんじゃなく確認です」「それ、カエルと同じ言い方です」「陛下、最近よく言ってますから」
第109話 私は、怖いからこそ「今日はここまで」と言いました二度目の地下調査から四日後、ザラから「奥へ進める可能性がある」と連絡が入った。あのときミオだけに聞こえた声については、その後も研究院で解析が続けられていたが、意味のある言語として再現することはできなかった。現場へ残した簡易記録器にも、それらしい音声は記録されていない。だからといって、ミオの聞き間違いと片づけることもできず、ザラは「外部音声ではなく、魔力に対する知覚反応だった可能性が少し上がっただけ」と慎重な言い方を崩さなかった。一方、問題の石壁については、前回確認した長方形の継ぎ目が、単なる装飾ではない可能性が高まっていた。「壁そのものが扉になってる?」三度目の調査前会議で、ミオが図面を見ながら尋ねると、ザラは頷いた。「たぶん。ただし、普通の扉みたいに押したり引いたりするものではないわね。壁の端に細い魔力導線らしきものが走ってる。今はほとんど死んでるけど、完全には消えてない」「封印ですか?」アルクが答える。「封印の可能性もありますが、単なる開閉機構かもしれません。古い建築物の場合、『外から入れないようにするもの』と『普段閉じておくための仕組み』は区別して考えたほうがいいでしょう」「開けたら何か出るかもしれない扉と、倉庫の戸では全然違いますからね」「そういうことです」カエルは資料を黙って見ていたが、しばらくしてから口を開いた。「今日は開ける?」その問いに、ザラは少しだけ間を置いた。「開ける可能性はある。ただし、そこまで行って周辺測定に異常がなく、扉に明確な警告術式や封印反応がなければ、という条件つき」「誰が決める?」「私とフィア。あと、森側のセフィアが反対したら中止」「ミオは?」カエルの視線がこちらへ向く。ミオは少しだけ考
第108話 地下で聞こえた声は、私の名前を呼びませんでした最初の地下調査から三日後、ミオたちは再び精霊森林の石段前に集まっていた。その三日間、ザラとアルクは壁面から写し取った古い碑文の解析を進め、人間王国側の古語資料、ヴァルディア旧王朝の文書、精霊に伝わる古い呼称まで片端から照合した。しかし、「二人を一つにするな」「火は火、卓は卓」「門は選ぶのではなく、開かれる」という暫定訳を覆すほどの発見はなく、かといって、それが何を指しているのか説明できる資料も見つからなかった。つまり、三日かけて増えたのは、答えよりも「分からない」という確認だった。「研究って、もっとこう、三日も調べたら一つくらい何か分かるものだと思ってました」石段の前で装備を確認しながらミオが言うと、ザラが嫌そうな顔で振り向いた。「夢見すぎ。三日調べて『最初の推測が雑だった』と分かるだけでも十分成果よ」「今回は?」「最初の推測が雑だったかどうかすら、まだ分からない」「もっと駄目じゃないですか」「駄目じゃない。正確」ザラはそう言いながら、自分の鞄から三枚の紙を取り出した。「一応、現時点で増えた情報はある。まず碑文の文字体系は、人間王国で七百年以上前に使われていた古記号と一部共通する。でも完全一致ではない。次に、王城地下の旧宮殿で使われていた記号とも似ている部分がある。でも、やっぱり完全一致じゃない。最後に、精霊側の古い祭祀標識にも似た形が二つある」「全部、少しずつ似てる?」「そう。だから一番嫌なのよ」アルクが横から静かに補足する。「一つの文明が複数地域へ影響した可能性もありますし、逆に後世の人々が古い記号だけを借用した可能性もあります。単純に似た形へ収束しただけということもあり得ます」「つまり、まだ何でもあり」「かなり乱暴に言えば」「最近、その答え
第107話 地下遺跡の壁には、『二人を一つにするな』と刻まれていました石段を下り始めてすぐ、ミオは地上とは空気の質が違うことに気づいた。冷たい。けれど、冬の外気のように肌を刺す冷たさではない。呼吸をするたび、胸の奥へ薄い水が流れ込んでくるような、形のない冷たさだった。先頭を歩くザラは、数段ごとに足を止めて測定器を確認している。その後ろをセフィア、ミオ、アルクの順に進み、最後尾にフィアとカエルがついていた。普段ならカエルはミオのすぐ横へ来たがるはずなのに、今日は決めた役割どおり、後方警戒に徹している。それだけで、少し安心した。「ミオ、今どう?」ザラが前を向いたまま尋ねた。「少し冷たいです。でも、昨日の石段の前より急に強くなった感じはありません」「身体のどこ?」「胸の奥、というか……説明しづらいんですけど、皮膚が寒いわけではないです」「頭痛は?」「ありません」「吐き気、眩暈、耳鳴り、視界の変化」「全部なしです」ザラは頷き、アルクがそのやり取りを記録する。「じゃあ継続。ただし、違和感が一段でも強くなったらすぐ言って」「はい」その会話を聞いていたカエルが、後ろから低い声で確認した。「本当に平気?」ミオは振り返らずに答える。「今は平気です」「我慢してない?」「してません。もし我慢してたら、ザラにあとで怒られますから」「私にも言って」「もちろんです」少し間があってから、カエルは「分かった」とだけ答えた。言葉数は少ないが、それで十分だった。さらに十数段下りると、土と根に覆われていた部分が終わり、完全な







